自分らしい生き方

メルマガ「ピンチをチャンスに!あの手この手の勝者の心理戦」の過去ログとそれに派生する、生き方について考察してみます。

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変わらなきゃ

見事じゃ。



この男だけには、絶対に気をつけろ。

武田信玄がつぶやいた。
気をつけろと言われた人物こそ、あの織田信長だった。

信長から贈られた贈り物を見ると、箱の裏地の部分にまで、きめ細かい心遣いがされており、手抜きが一切無かったからです。

そんな心遣いが出来る奴は、戦争においてもあらゆる極め細やかさを発揮することを戦の天才・武田信玄は知り尽くしていました。

戦いの天才と言われた武田信玄だからこそ見抜けた事だったのかもしれません。

ちなみにこの時の、織田信長と言えば、うつけ者(大バカ者の意)と世間からは完全に嘲笑されまくっていた頃の話です。

時は元亀3年(1572)。



とうとう信玄は、上洛へ向かって重い腰をあげました。

1568年には既に、あの要注意人物の織田信長が先に上洛を果たしていた。
満を持しての信玄の上洛がとうとう始まったのです。

上洛の途中に通らなければならないのが、浜松。

この浜松には、織田信長と手を組み、「海道一の弓取り」と恐れられていた徳川家康がおりました。

しかし信玄の手にかかってしまえば、徳川家康など、まるで赤子の手をひねるも同然。

事実、歴史を見てもわかるように、三方ヶ原の戦いで家康は信玄に完膚無きまでにたたきのめされます。
命からがら家康は浜松城に逃げ帰ります。

信玄はこんなところで、兵力を消耗するのもバカバカしいとばかりに家康の首を取らずに、上洛を続けます。

信玄の目的は、家康の首ではなく、上洛にあったからです。

浜松城に命からがら、逃げ戻った家康は、思います。



「天下にあれほど強き武将がいたとは・・・・。(+_+)」「海道一の弓取り」?
俺なんかより遥かに強い奴がおるやんけ。

しかも浜松城に逃げ帰る途中に馬上で脱糞までしていました。

こんな惨めなことはありません。
こんな恥ずかしいことはありません。

嫌と言うほど、自分の無力さを思い知らされた家康は変わろうとします。
敗因は己の慢心にあったと悟ったからです。


変わらなきゃ。

変わらねば。

今変わらなきゃ、いつ変われるというんだっ!

家康は部下に命令します。
「今すぐに、この地で一番の絵師を呼べ」

そしてあろうことか、自分自身のその惨めな姿をその場で描かせたのです。

これがその時の絵です。(『文化遺産オンライン』のホームページより)
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=18704

「さらに大きく」をクリックすると当時の家康の悔しさが伝わってきます。

そして家康は、それを常に眺めて、生涯の戒めとしたのです。

そしてその戒めがあったからこそ、後の徳川300年を築き得ることが出来たのかもしれません。
ちなみに信玄は、上洛の途中で病死します。

もし信玄が上洛を果たし、信長と一戦を交えていたら歴史はどうなっていたのでしょう?

人間とは忘れる動物です。



いちいち細々としたことまで覚えていて、いつもクヨクヨしていたのでは人生もつまらないものとなるでしょう。
しかし、絶対に忘れてはならないこともあるはずです。

そして、そのことが本当にわかった時に、自分自身が変われるのかもしれません。

このメルマガは2006年5月10日に発行されたものです。

[ 2010/01/02 10:47 ] メルマガ | TB(0) | CM(0)
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